海賊王のようにも、『ブッダ』のようにもならない価値観。

海賊王のようにも、『ブッダ』のようにもならない価値観。

僕には大した冨・名声・力はありません。ありったけの夢をかき集める訳でも、海賊王について語るつもりもないですが、人々が欲しがるものを集約している言葉です。僕も例外に洩れず、そういう生活をして、そういう人生を歩んでいると思います。

自身の能力向上を考えていたとき、リミッター、あるいは障害となっているものは何なのか、と考えました。
ツイッターに書きましたが、それは「義憤のコントロール」です。
つまり、怒りっぽい性格を矯正するために、ある程度の能力が阻害されている状況なのでは、と思い至りました。
悲しみ、怒り、恨み、悔しさは使い方を誤られることも多いですが、立派な精神エネルギーだと考えています。
0か1ではないんですね。その微細なコントロール、中庸のバランスを取ることが大切なのではないでしょうか。
僕がまったく怒らない人間ということはありませんが。

そのようなことを考えた後に、手に取ったのは手塚治先生の『ブッダ』でした。
後から存じ上げることになりますが、これは重要なキャラクターが架空の、あくまで漫画なんです。
しかし、かつて僕の生き方を左右した本と言っても過言ではありません。
古代インドの死生観、これをとてもリアルに感じることができます。

僕には社会やテレビや身近な人間に刷り込まれた価値観があります。
そういったものが、やっと熔解してきたかな、と感じています。
自分の価値をしっかりと自分で決めることができないと、苦しみに囚われることになるんです。
苦しまないことが必ず善、というつもりもないですが。
ブッダのように悟ることが僕にとって必ず正しい、ともなりません。

僕には大した冨・名声・力はありません。
必要なだけ追い求めようとは思います。でも、これらがなかったとしても、いいと思うことができる。
そのような自分が、本当に必要なものなのではないか。
少なくとも僕が本当に大切だと思うものは、この三つではないんです。

むやみに怒ろうとも思いません。
でも、もう少し怒ったっていい。そうやって自分を許す過程に入ったと思います。
若かりし頃は、うまく怒れない、なんて悩んでいたこともありました(言いたいことが言えない、が近いかな)。
諸行無常、人も変わります。

まっ、僕は自由な人ですから、これからもリバティーにいきます。
能力を向上させることは、僕の中で正しいことです。